前回、「つづく」としたので、続けてみる。
①罰しても繰り返してしまう少年。②さらに病理的で、単純に「動機」などと言語化できない種類の犯罪を犯してしまう少年達、これらの少年にたいしてどの様な取り組みをするのか、この国の基本的な力量が問われている。これらは、少なくとも「厳罰化」によって解決できる種類の課題ではなく、最初に書いたように、罰を与えることによって解決する種類の犯罪ではないことを知るべきだと思う。
これらの少年が“作られてくる”背景は、大人の社会の病理的側面に起因する場合が多いのではないかと思う。①虐待を受けて育ち、心に深い傷を負っていて、他者を信じたり、温かい人間関係を築くことが非常に困難な子ども達、②マスコミやネットを通じて大人が営利などの目的で流す、様々な歪んだ性情報と、異常性愛の趣向を助長する病理的情報の数々。
虐待を受けた子ども達への対応は、根気のいる日常的な人間的な関わりを通して、彼らが“問題行動”という形で示す様々な無意識のSOSを受け止め、長い時間を掛けて癒していく取り組みが不可欠であると思う。児童相談所や、乳児院、児童養護施設、児童自立支援施設にこれらの専門職を必要な人数配置しなければ解決には結びつかない。なのに、現状はほとんど専門教育も受けたことがなく、辞令一本で突然児童相談所へ異動してくる「児童福祉司」。職員配置基準が余りにも貧弱で、衣食住を提供することが最大の役割だった頃とほとんど変わらない児童養護施設の職員配置。(ここでの児童指導員の勤務を国会議員は是非一度くらい体験して欲しい。) 都道府県や指定都市立の児童自立支援施設も、そのほとんどが児童相談所と同じように、知識も、技術も、倫理性も不十分な、突然異動してくる公務員によって運営されている現実。
これらの一連の児童福祉施設の充実、…つまり、子ども達と日常を共にする児童指導員等を専門職として明確に位置づけ、その採用・訓練・スーパービジョン等の支援体制を明確にし、その数の絶対的不足も補う必要がある。これらの取り組みが、一見遠回りのように見えても、心に深い傷を負わされた子供達を癒し、普通の社会人として自立できる支援になるのであって、これらにほとんど手を付けずに、12歳から少年院に収容するという隔離政策は愚の骨頂と思うのだが、どうだろうか。
また、治療的関わりと言うと、直ぐに精神科医や臨床心理士を配置することで事足れりという風潮があることにも疑問を感じる。私が以前関わった経験からすると、精神科医(思春期を専門とする精神科医=実は非常に少ない)と、臨床心理士と、ソーシャルワーカーがチームを組んで、協力し合って、児童指導員を支えていくことが不可欠であり、特に日常生活を子ども達と共にしている児童指導員の役割や、その資質が大きな影響を与えることは紛れもない事実である。ところが彼が疲れ切っている。あまりの勤務状況、私が学生時代に児童養護施設に泊まり込んだ頃とは余りにも異なる、子ども達の“心の叫び”に、一つ一つ対応していると本当に疲れ切って心身共に疲弊する現状をどうして政策立案者は見ようとしないのか、不思議でならない。
さて、マスコミやネットを通じて垂れ流される歪んだ性情報や、異常嗜癖情報等々は、残念ながら、いつの時代にも常軌を逸した人々が必ず一定の割合で私たちの周りには暮らしていて、彼らをゼロにすることは不可能である。彼らやその周囲で暮らす人たちは、その異常性に早く気づき、これを治療するプログラムに参加する、又は参加を勧める必要がある。ところがそのようなプログラムを受けられる場所が身近に見つからないのも私たちの国の現実である。この点では欧米の国々の試行錯誤に学ぶところが沢山あるように思う。
いずれにしても、これらの手間のかかる総合的な取り組みが継続されてこそ、「罰するだけでは立ち直れない子ども達」を、“つくらない社会”、“減らす社会”、“治療できる社会”をつくることができるのだと思う。 にも関わらず、米国ですでに失敗した厳罰化という安易な選択を、しかも一向に少年事件が増えてもいないのに選択するというこの国の政治家の愚かしさに反吐が出る思いである。 (つづく…被害者への対応のこと、児童福祉にお金を使うことなど)
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