☆ 「あの日」から2年が経過した。様々な行事が行われている。新聞、テレビは、多くの「その後」を伝えている。読んでいると、観ていると、目頭が熱くなる。多くの人の無念の思いを想像すると、胸が熱くなる。あれからずっと後悔を引きずって生きている人たちのことを思う。働く手段を無くし、働く場所を無くし、住む場所を無くし、家族を亡くした人達のことを思う。先を見通せない人達、「何年我慢すれば…」という目標を設定できない人達のことを思う。家族が離散して、バラバラに暮らさざるを得ない人達のことを思う。 前を向いて生きていける日が、いつかきっと来ると信じて頑張って欲しいと祈るしかない。何にも役に立っていない自分が不甲斐ない。
☆ それにしても、政治の方向は一体どうなっていくのだろう。原子力ムラの人たちが息を吹き返し、多くの人が、原発を順次再稼働させようとしているABEという政治家にエールを贈っている事実をどう理解したらよいのだろうか。 2年間を振り返ると、OZAWAという政治家の罪も非常に重いと思えてくる。 危機的状況の中で、一致協力して事に当たれず、足の引っ張り合いをしていたずらに時間を浪費させたOZAWAの罪は重いと思えるのだが…。 今朝の『福島民報』という新聞をみると、未だに福島県内各地に桁違いの高放射線の地域が多く存在する。先日郡山市に行ったが、今でも1時間当たり0.6マイクロシーベルトを記録してるようで、そこで普通に市民生活が行われているけれども、これが1年2年と続くことが子ども達にどの様な影響を与えるのだろうか。 原子力ムラの人達に、子や孫を連れて福島県の高放射線地域に移住して欲しい。各地の原発の敷地内で暮らして欲しいと思う。安全だとか、健康によいとまで言う人達に、それを自ら実証して欲しいものである。
☆ 郡山から会津に抜ける道は強風と吹雪だった。 そう、1週間前には岩手県の一戸町へ行ったが、ここもどっさりと雪が積もっていた。 僕が行く前日は猛吹雪だったそうで、ツルツルに凍った道を一歩一歩慎重に歩いた。 さて、今度はどこで地震が起こるのだろうか。この国で暮らすかぎりは、ある種の覚悟が必要なのかも知れない。僕はもう66歳だから、いつでも仕方がないが、若い人達のいのちが守られることを願うばかりである。どうも心が乱れて、落ち着いた文章が書けない3月11日である。
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