私が小児科病棟へ転院したのは1957年2月だったと思う。まだ10歳だった。5階建ての病棟の5階にあった。階段を上がって5階に着くと、正面に看護師(当時は看護婦)詰め所があり、左右に病室が続いていた。右側は親が付き添って入院している子ども達で、重症の子らが多いと聞かされていて、僕は区切りのドアを開いてそちらへ行ったことはなかった。
左側は、3歳の子から、中学3年生の子までが付き添い無しで入院している病室だった。看護師詰め所から左へ行くと、つまり方角では東の方へ行くと、最初に左側(つまり北側)に便所と風呂場があって、右側(南側)には食堂があった。便所は、慢性腎炎やネフローゼの子ども達一人一人の名前が書かれた大きなガラス製の容器が並んでいて、毎日全てのおしっこをそこに貯めて検査することになっていた。
お風呂と食堂を通り過ぎると両側に病室が並んでいた。その病室は詰め所に近い方は個室になっていて、その次が二人部屋で、その次は6人くらいの大きな部屋になっていた。全ての部屋が透明のガラス窓で仕切られていて、内側にカーテンがあったが、ずっと向こうの部屋まで見渡せた。病状によって、個室に入れられたり大部屋に移動したりした。個室に移ってカーテンが閉められるととてもシリアスな病状であることが子どもらの間でささやかれた。
屋上に上がることが出来て、上がってみると、花壇のようなものがあって、「紀元二千六百年」と書かれた大きな石碑が建っていた!!
さて、この小児科病棟に、私は別の病院で受けた手術が成功せず、左腕が化膿して腫れ上がり、外傷性骨随炎という病気になり、あちこちの病院を回ったあげくに、H先生という一人の整形外科医の「切断しなくても治る」という言葉に頼って別の病院から転院した。
初日は、詰め所に一番近い北側の個室に入れられた。隣にはネフローゼで長期入院をしている女の子がいた。名前は忘れてしまったけれど、確かNで始まる名前だったように思う。
外来から車いすに乗せられて、エレベーターで5階へ降りると、子ども達が廊下を駆け回っていて、「ここは本当に病院なんだろうか」と思わせられたことを思い出す。とても明るい印象の病棟だった。
50年も昔のことで、自分の記憶だけなので、きっと間違いも多いと思うけれど、記憶のままに書いてみようと思う。