もう随分前に、全盲の友人と八丈島の温泉に遊びに行った。海を見渡せる露天風呂もとても満足のいくモノだった。レンタカーを借りて島内を走ってみて、港に青ヶ島行きの船が停泊していた。約2時間で着くと言うので、もう一泊を青ヶ島で泊まってみようかということに突然なって、小さな貨客船に乗った。
乗客は私たち2人と、一組の母子と、メインテナンスの仕事で島へ行くどこかの会社の人1人というわずかな人数だった。船は大きく揺れて、座っていることは無理で、景色を見ることも出来ず、畳敷きの床にずっと寝っ転がって行くはめになった。青ヶ島の港に着いたけれども船が上下に大きく揺れるので、なかなか岸壁に降りることが出来ず、特に全盲の友人は両側から船員さんが支えてくれて、かけ声と共に陸に飛び移るという仕方でやっと上陸できた。民宿のおばさんが車で迎えに来てくれていて、その港から急な坂道を登り、トンネルを抜けて集落へ向かった。
青ヶ島は、周りを海に囲まれているのだけれど、海のそばへ行けるのはその港だけで、海面に顔を出した火山の外輪山に集落があるというふうで、周囲は切り立った崖に囲まれているので、「絶海の孤島で山岳生活!」という表現がぴったりくるという印象をもった。
民宿で車を借りて島内を走ったけれど、すぐに行くところがなくなってしまった。地熱を利用したサウナだけでなく、その周辺には硫黄の噴気口がいくつも開いていて、火山の山頂付近で暮らしているということを実感出来るものだった。地上波のテレビは映りが悪く、NTTの携帯は良く通じた。小中学校の前に信号機が一つあり、子どもたちが本土へ行った時に信号機を見たこともないと困るので設けてあるということだった。村を歩いていると行き交う人たちからは挨拶され、人口200人くらいの村だから誰もがお互いを良く知っていて、島外の僕たちはきっと好奇な目で見られていたのではないかと思われる。
役場は日曜日だったけれども開いていて、絵はがきなどを買い求めた。若い職員は本土から3年くらいの期限付き?で働きに来ている人たちのようだった。ちょうど村長選挙がスタートした日らしく、2人の人が立候補し、後で知ったけれども60票くらいで当選されていた。元気な間は良いけれど、要介護状態になったら、かなり厳しいなあと思ってしまった。
島の歴史は火山との戦いの歴史でもあったようで、八丈島からの船の名前の還住丸は、1785年?火山噴火によって多くの(100人以上?)犠牲者を出しながら、八丈島へ残りの全員が避難し、約40年間の苦難に満ちた避難生活の後、全島住民か帰還できたという歴史から「還住」という言葉を使って船の名前にしているとのことだった。その帰還時のリーダーが佐々木次郎太夫という人物で、その人のお墓があった。
青ヶ島に一泊したけれど、翌日船便はなく、ヘリコプターは上空まで来ながら視界が悪いという理由で降りてこないまま行ってしまった(>_<) 島で暮らす大変さを実感した!! 夕方、村のチャーター便が飛ぶと言われてヘリポートに行った。本当に着陸してくれるのか不安な気持ちで空を見上げ、役場の職員との交信を聞いていた。やっと着陸でき、生まれて初めてヘリコプターに乗った。客は僕たち二人と、メインテナンスの仕事に来ていた人と3人だった。切り立った崖を下に見ながら八丈島までわずか20分の飛行はとても安定していて、旅行映画を見ているようだった。でも、結局羽田への最終飛行機に間に合わず、翌日の午前中は仕事を休んでしまう結果になってしまった(-_-) 見通しのない旅行はリスクをともなうものだと思わせられた。
コメント