最初に入院した病院では、もちろんまだテレビも一般的ではなく(昭和31年、1956年当時)、寝たきりの僕が退屈しないように、母が良く「貸本」を借りてきてくれた。借りてきてくれた本の内容などはほとんど覚えていないけれど、良く母に読んでもらっていた。病院の古い建物と、暗い陰気な病室の内装と、天井のシミと、使い込まれた貸本の表紙の全てに、何か「統一感」があったように思う!?
退院後も良く10円を持って貸本屋に行った。その時は、確か、少年冒険モノとか、何かオドロオドロしい、梅津かずおの漫画に似たようなものを借りていたように思う。貸本の体裁も独特で、A5版?か何か、「いかにも貸本」という装いをしていたように思う。随分お世話になったのに、あまり固有名詞等を覚えていないのは何故だろうか??
ちなみに我が家にテレビがやってきたのは中学1年生の時だった。それまでは、近くの材木屋さんでテレビを見せてもらっていた。大相撲のあの触れ太鼓の音(吉葉山、鏡里、三根山、千代の山…)、プロレスの熱気(力道山、東富士、ルーテーズ、おきしきな、オルテガ…)、アメリカの1時間番組(ローハイド、ララミー牧場、名犬ラッシー…)、小さな箱は魔物のようだった。
テレビが来るまでは、もっぱらラジオの「連続放送劇」を聴いていた。耳をそばだてて毎日聴いていた。ラジオは想像力をかき立ててくれた。鉱石ラジオとか、ゲルマニウムラジオとかを組み立てて、一生懸命聞き耳をたてたものだ。兄がとてもメカに強くて、兄の見よう見まねでラジオを組み立てた。後に自分の組み立てたラジオでローマオリンピックの中継を夜中に起きて聴いたことを思い出す。裸足のアベベが、石畳のアッピア街道を独走してマラソンに優勝した時も、ラジオから聞いて、情景を想像したものである。
入院中の話題からずれてしまった。