僕が筑豊に住んだのは7年間だったけれど、本当に多くの人たちに支えられる日々であった。多くの若者達と勉強し、遊び、様々な福祉活動にも参加させてもらった。その中で、ある講演会がきっかけで僕は飯野公二さんと知り合った。
飯野さんは、僕が出会った時にはもう70歳くらいになっておられたと思うけれど、本当に研究熱心で、前向きで、エネルギーにあふれるお爺さんだった。精神障害者の家族会の代表をしておられ、奥様が当事者であった。ご夫婦お二人で暮らしておられ、氏がいつも利用されている部屋は、様々な資料であふれていた。
飯野さんは、戦時中・戦後と結核患者として福岡の療養所に入院されていた。当時は、結核は治る病気ではないので死ぬ覚悟は出来ていたと言っておられた。戦後の食糧難の時代に、どうやって栄養を補給するかと四苦八苦したお話を沢山聴かせてもらった。療養所の庭でブタを飼って食料にした話しや、戦後の患者運動の拠点として頑張ったことや、福岡コロニーの基礎を築いたこと等々、どれもついこの間の出来事のように生き生きと語って下さった。
奥様が統合失調症を発病されたのも、自分にも責任があると言われ、僕がお会いした頃は本当に奥様を大切にされていた。結核患者の当事者として取り組まれた患者運動と、精神障害者の家族として家族会運動に取り組まれた後半生、生涯を通じて戦いの人生だったのではないかと思う。僕が出会った頃は、家族会の活動に邁進しておられた。いつも軽自動車を運転して、万年青年と言っても良い若々しいセンスを持ち、いつも無から有を生み出そうとする創意工夫の人だったと思う。
僕が筑豊を離れてから、飯野さんを敬愛する人たちによって「生前葬」が営まれたが、お誘いを受けながら仕事の都合で参加できなかったのが残念で仕方がない。20世紀の最後の頃に、僕は田川に行ったついでに飯野さんがその頃入所しておられた高齢者施設にお邪魔した。奥様はすでに亡くなっておられたが、飯野さんは明るい自分の部屋で、熱心に本を読み、資料に目を通し、久しぶりに会った僕に、今後の社会福祉のあり方について熱心に語っておられ、少し痩せられたようだったけれど、若さを全く失うことなく、生き生きと生きておられることに脱帽した。その時、二人で肩を組んで写真を撮ってもらった。それは今、自分の部屋の前に飾らしていただいている。 飯野公二さんが亡くなって、もう何年になるのだろうか。 僕は、間違いなく、飯野さんから多くのエネルギーをいただいた。合掌
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