正月二日は年賀状制作に追われた。そして、3日、4日と仕事に出て、今日5日はぼんやりとしている。さて、また「過去話」に戻ることにする。
学生時代を京都で過ごした僕は、お金はなかったけれど時間はあったので、あちこち歩き回った。学生時代を京都で過ごせたことはとてもラッキーだったと思う。
お気に入りの場所は、京阪京津線の蹴上から、疎水に沿って南禅寺に出て、ここから永観堂、若王寺、法然院界隈を歩くことだった。途中、若王寺の山に登ったり、西に逸れて大きな墓地のある黒谷金戒光明寺、会津藩士のお墓のあった?真如堂等を歩いて、よく母が口にしていた「ああ真如堂、ここらで休んで永観堂、そんなうまいこと南禅寺」などと言う言葉遊びを思い出したりしながら、ブラブラと歩いた。
最初の蹴上から南禅寺への疎水端のルートはいつ歩いてもほとんど人通りがなく、途中から金地院?の境内を左下に見ながら歩くもので、夏でも結構ひんやりとしていた。初めていくと、ここから先へ行けるのかなあと思わせられる場所だけれど、通り抜けることが可能なんである。
蹴上には日本で最初の?煉瓦造りの水力発電所と、インクラインという、運河を琵琶湖まで船で遡上するシステムが展示されていた。僕の父親は左官職人だったけれど、10歳の時に大津の瀬田から京都の左官屋さんへ丁稚奉公に入り、26歳で暖簾分けをしてもらうまで京都の中京(なかぎょう)で働いたらしい。父の最初の「やぶいり」の時に、岡崎の港から船に乗り、その船はケーブルカーの様な台車に乗せられて蹴上まで昇り、ここから疎水の両側から人がロープで船を引っ張って琵琶湖畔の三井寺まで行ったのだと聞かされた。父は明治30年(1897年)生まれだから、明治41年頃のことだったと思う。
その事を思いながら、展示されていた台車をさわったりした。
♪「京都岡崎公園は、東にうねうね東山、西に疎水があおあおと、春は桜に、秋は萩」♪等という歌もよく母から聞かされた。
蹴上にあるお寺、安養寺?には、僕たちの学生時代の友人Kさんが眠っている。確か25歳だったと思うけれど、若くして、突然血液の病気?か何かで、入院して一週間くらいで亡くなってしまった。あの時、危篤と聞いて、京都の第2日赤?だったかへ急いだけれど、病院に着いた時には既に亡くなっていた。最後まで意識がはっきりしていたと聞いて、その無念さを思った。僕はなかなか参加できないが、今も毎年命日近くに仲間が集まってお墓参りをしている。あれからもう35年以上が経ってしまって、皆定年を迎える年になった。
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