先日、またNHKのドキュメンタリーを観てしまった。モンゴルのウランバートルのマンホールで暮らしていた子どもたちの10年後を撮ったものだった。
どの時代に、どこで、誰の子として生まれるかは、生まれる者には運命であって、誰も自分で選択できるわけではない。ある子どもは、彼らのような境遇のもとに生まれ、育ち、成人になるが、別の人は鳩山家のような家の子として生まれる。
自分は、どう考えても豊かな、経済的に恵まれた家に生まれたわけではないけれど、皆に守られて、自分の好きなように生きる機会が与えられてきたと思う。怪我をしたり、医療費を捻出するために家族に多大な迷惑をかけたりしながら、多くの友人・知人、恩師と言える人たちとの出会いを経て、この年齢まで生きてくることができた。でも、もしも人生のスタートで、自分の努力とは無縁のところで過酷な境遇が用意されていたら、とても普通の暮らしというゴールにたどり着ける自信はない。
成長して成人になり、結婚をし、子どもが生まれ、そして離婚と離別、一つ一つの現実が彼らの人生に重しのようにのしかかって、ドキュメンタリーの中に登場した彼が慟哭する姿を見ながら、あまりにも不公平な一度きりの人生、あまりにも不公平な生活環境に、呆然とさせられてしまう。
感謝という言葉が使える境遇と、感謝という言葉を思いつくことも出来ない境遇とがあると思う。運・不運だけで人生は決まるわけではないと言う人も多くいるし、自分もそう思う。けれど、努力をする前提も欠けている境遇で人生のスタートを切らされる子どもたちがいるのも事実だと思う。マニラの街中の路上で眠っている子どもたちを何度も目撃した。テレビの報道番組で、中国との国境に近い北朝鮮の市場で、食べ物をあさる子どもたちの姿も思い出される。日本でも貧富の差が拡大しているし、守ってくれるはずの親から虐待される子どもたちもいる。
この文章をどの様に終わったら良いのかわからない。昔のリアリズム映画を観た後に、首うなだれて映画館を後にした時と同じような、あるいはそれ以上の気分になっている。
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