最近読んだ本の中から、万城目学『プリンセス・トヨトミ』(文春文庫)と三田完『当マイクロフォン』(角川文庫)を取り上げたい。
前者は映画にもなっていたようで、「荒唐無稽奇想天外デフォルメ読み物」とでも表現できそうな小説だった。大阪の北河内地方で生まれ育った自分にも何か関係がありそうで、でも92歳で亡くなった父親からは何も伝承されていないという事実は、ひょっとしたら父の存命中の、26歳で大阪を出た自分にはその「資格」がないから何も伝えられなかったのかも知れない…、等と思わせられる。ひょっとしたら今も大阪で暮らす兄は、僕に対して秘密を持っているのではないだろうか、等々と思わせられてしまうお話だった。この様な、小説の中にある荒唐無稽な世界、浅田次郎の『椿山課長の七日間』という小説にも通じる荒唐無稽さは、ストレスが多い現実世界から僕自身を開放してくれるツールのようだ。床について眠りに入るまでの短い時間に、「あり得ない話」を色々と思い描く、それを徹底して文章にしたような…。でも、文庫の終わりに著者自身が書いておられる文章、「なんだ坂、こんな坂、大阪」を読んで、改めて様々な構想を思い描いて書かれていることを知り、自分の「ぐだぐだ妄想」とは異質な努力をそこに垣間見て、小説家には本当に脱帽である。
それにしても、僕が愛読する飯嶋和一氏とは全く異なる世界がそこにはあった。
さて、後者の『当マイクロフォン』は、元NHKアナウンサーの中西龍氏の伝記小説である。昔、情緒過多のラジオアナウンサーのことが気になって仕方がなかった。自分自身のことも結構口にされて、視聴者からの便りを読みつつ涙するアナウンサーの存在が気になって仕方がなくて、「日本のメロディー」は良く聴いたものである。そのアナウンサーの声がラジオから聴かれなくなって随分時間が経過して、このたびこの本を読むことになって、あらためて中西龍という人のものすごさにビックリさせられた。とてもこの人と一緒に仕事はできないなあと思わせられた。ラジオを通じて「知っている」程度のことで満足しておくべきだったと、この本を読んで後悔させられた。その理由は、…きっと読まれた人ならだれでも同じような感慨を抱かれるのではないかと思う。
中西龍氏のナレーションが入った3枚組のCDが、この本の作者でもある三田完氏によって編集されて発売されたので、つい買ってしまった。これも、やはり繰り返し聴くにはかなりきついなあと思わせられて、いつの間にか自分は現代風のモノへの親和性が増してきているのだと思わせられた。「古き良き時代」の空気を醸し出すモノを受け止める力が乏しくなってきているようだ。自分もこれらをすでに「通り過ぎて来た」のかも知れない。う~ん。
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