28 告知
最初の病院で、もうこれ以上治療することは難しいと言われて、僕は親に連れられていくつかの病院の外来を訪ねた。今後の治療方針や方法について、診断を得るためだった。ある病院で、「早く腕を切断しなければ、骨髄炎の炎症が腕から身体の方へと広がって、そうすれば生命の保障はない」こと、「生命と腕一本と比べたら迷っている場合ではないだろう」ときつく言われた。途中から僕だけ廊下に出るように言われて、廊下で待っていたが、要するに早く切断するしかないと強く決断を求められた。
その時僕の頭に浮かんだのは「もう野球ができない!」というもので、子どもらしい感覚だったと思う。で、とても悲しい気分になって涙を流したと思う。
障がいが残るということを告知する際の配慮などということがおよそ考慮されている風でもなく、…途中から外へ出されたのは配慮だったのかも知れないが…、そういう時代だったのだと思う
その結果、既述のように、後に入院することになった病院の整形外科H 医師の「切らなくても治せる」という言葉に全てを賭けて、転院を決めたのだった。けれど、やっぱり野球は無理だと思うようになった。今だったら、片腕の大リーガー、アボット選手や甲子園球児などを知っているので、もう少し違う感覚で事態の推移を見ることができたかも知れないが…。
話は変わるが、最近、宮部みゆきが松本清張の短編集を文庫本で3冊に編纂して出版したというので、つい1冊を買ってしまったが、ことわり書きがあるものの、およそ現在の小説類では使わないだろうという不快語や差別的表現が沢山あって、それが1970年前後の出版だったりすると、ついこの間までこんな言葉を平気で使って出版していたのかと驚かされる。この様な状況だから、障がいの告知についても特別な配慮もなく無造作に告げられたんだろうなあと思う。
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