徳善義和著『マルティン・ルター -ことばに生きた改革者』(岩波新書)を読んだ。
徳善先生はルターに関する著作を数多くものにしておられ、自分もその何冊かを所有している。けれども、全く門外漢の自分は、そのいずれの書物も途中で挫折して完読できていなかった。今回一般向けに書かれた新書版のこの本は、本当に一気に読めた。先日、大阪での2時間の会議のために往復8時間ほどの時間を費やして移動したのだが、途中まで読んでいたこの本を一気に最後まで読むことが出来た。
いやあ、ルターという人物の様々な側面と、何に彼が腹を立て、何を成し遂げようとしたのか、実に明快に論じられていて、「なるほど」と思わせられた。父親の期待を一身に受けて法律を学ぶ学徒だった彼が、その期待を裏切って修道士への道を歩みだすきっかけや、司祭となって最初のミサ(父親が同業者20人を伴って息子の晴れ舞台に参加していた)の途中で立ち往生して先へ進めなくなった時の様子や、彼の人間的な様子があちこちで読めて、ルターさんを身近に感じることが出来た。
一方、彼が成し遂げた超人的な仕事量と、超生真面目な生き方は、彼のスーパーマンのような側面であって、凡人である自分が身近に感じること等とてもできない存在であることもまた実感できた。
古いヨーロッパ世界の隅々にまで影響を与えることになった宗教改革という「戦いの日々」を過ごしたルターは、きっと寸暇を惜しんで目前のやるべきことの一つ一つに誠実に取り組んだ結果、「振り返ると大きな集団が、様々な思惑を巡らせながら自分の後をついてきていた」といった感慨をもつにいたったのではないだろうか。
この書物の中で、ドイツ農民戦争をめぐるルターの発言が、彼の想像を超える展開となり、「結果として、多くの農民たちを死に追いやってしまったことは否定できない。これを機に、ルターと宗教改革は農民たちの支持を失うことになった」(161頁)という記述や、晩年の彼の著書が400年も後になってナチスに利用され、反ユダヤ主義の宣伝に利用されたという記述は、何とも悲しい現実である。これらの記述から徳善先生の公平な視点を読み取ることもできる。
それにしても、約500年前の世界を生きたルターの63年の生涯は、実に波乱に満ちたものだった。そのことをとても平易に読ませてもらった。
付記 僕は1989年のイースターの時期に、徳善先生に連れてもらって、当時の東ドイツの町々(ルターの町と言われる4つの市、アイスレーベン、アイゼナッハ、エルフルト、ヴィッテンベルクも含む町々)を訪問する機会を得た。新約聖書をわずか10週間ほどでドイツ語に翻訳したと言われるワルトブルク城のルターの部屋や、ルターが亡くなった際に横たわっていたというアイスレーベンの小さなベッドや、その他様々な思い出を想起しつつ、この一般向けの新書を一気に読み終えることが出来た。
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