8月15日。多くの人々にとっては特別な日。 にもかかわらず、朝から生命力が低下して全く活動できずに時間を過ごしている自分(T_T) NHKのハイビジョンで、戦後60年の記念ドキュメンタリーの再放送を流していて、ついつい長時間にわたって観てしまった。 1946年生まれの私は、「戦争を知らない子どもたち」の一人ではあるけれど、様々な手記や小説や映像を通じて、戦争の実像の一端を垣間見てきた。
1990年の8月15日は、韓国のテグ市にいて、食事をしながらお婆さんの証言を聞いていた。8月15日という日を、「戦後生まれの日本人の私」と、彼の地で「日本のために、生き別れた夫と会えないままに、終わらない戦後を引きずって生きてこられたお婆さん」との間に交わされた言葉の数々を思い出す。 たまたまあの時期に、この国で生まれた私と、たまたまあの時期に彼の地で生まれた彼女との、人生の前に立ちはだかる運命の違いに愕然とさせられたことを改めて思い出す。 1994年2月、フィリピンのパナイ島イロイロ市郊外の村で、あるお爺さんの家に泊めてもらい、彼が話す戦争時の日本人と日本という国への怒りや恨みや、様々な複雑な思いを聴きながら寝入ってしまったことを思い出す。 二人の老人は、「戦後生まれの貴方には罪はないし、責めるつもりもないけれど、二度と他国の人間に悲しい思いをさせてほしくない」と私への配慮と、願いを語ってくれた。
人間は愚かだと思う。地球全体を自分たちの価値観で支配できることなどありえない。力で人の思想や信条を圧殺することなど不可能なのだ。恨みが恨みを生み、不信の連鎖が悲劇を生む。これに利権がからみ、自分の利益を中心に動く人たちがからんで軍備がなされ、戦争が続く! 話し合いを重ね、妥協をくり返し、誰もが少しずつ堪え忍んで平和は維持できる。
人間に未来があるだろうか。多数派の人間にこの知恵があるだろうか。
8月15日を、異なる側面から、様々な立場から、見ること、考えること、が必要なんだと思う。